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概要

韮友会だより_2017

18昭和18年(1943年)韮高の前身旧韮中に入学した。当時を著した記録はないが、記憶の一端を回想して記してみたい。朝礼では運動場に生徒全員西方(七里岩方向)を向いて整列し、5年生級長の回れ右の号令で東方向(穂坂の方向)を向き、「はるか皇居に対し奉り最敬礼」の号令で頭を下げ一日が始まる。国語、漢文、代数、幾何、物理、化学、生物、英語などの教科のほか、体操、柔道、剣道、教練などがあった。今瞼に浮かぶのは、カバ、Mサン、アラシ、ワサビ、オニガワラ、ドジョウ、オコンコなどの各先生の姿である。終戦近くなると教室での授業はほとんどなく、勤労奉仕に明け暮れた。酒石酸とり1944年頃、登美寿屋のぶどう酒工場(現サントリー)へ、20数名で勤労奉仕に行かされた。ぶどう酒貯蔵の大樽(直径2メートル、長さ2・5メートル位)の中身を抜いた内壁に約5ミリ厚にこびりついた酒石酸を裸電球の明かりのもと、金槌でたたいて落とす作業であった。横倒しにした樽に40センチ位の横穴があり、そこから中へ3人位の仲間が入り作業をする。中へ入るとアルコールの香りで酔ってしまい、5分程で外に出、しばらく休んで深呼吸し、再び中へ入るの繰り返しで約3時間働く。酒石酸は圧電効果のあるロッシェル塩に精製し、潜水艦の音波探知機のセンサーに使うとのことだった。多少アルコール分を含んだ酒石酸の塊を少々持ち出し、ワサビ先生に渡したら口に入れガリガリとうまそうに食っていた。アルコール飲料不足の時代の出来事だった。七里岩の穴掘り1945年頃、軍需物資を貯蔵するとの理由で横穴掘りをさせられた。韮崎駅から街を通り甲州街道に出たところから400メートル位北へ進んだ地点の右側の七里岩の横腹にツルハシとシャベルで穴を掘るのである。2〜3メートル掘り進んだ場所で1945年8月15日の午前まで作業をし、天皇陛下の放送があるとのことで学校へ戻り、12時に校庭で終戦の詔勅を聴いた。全身の力が抜けた気持のまま帰宅した。いずれ男子は米軍に殺されると思った。戦時中の教練週2〜3回教練の時間があった。教官は軍人で「気をつけ」の号令で不動の姿勢をとらされる。この時は身体を少しでも動かすことは許されず、目玉を動かすだけでも教官が走ってきて往復ビンタをくらわせるようなものだった。このようなオコンコ教官も機械的教養にはうとく「爆撃機B29にはモーターが4つ」などと教示していた。エンジンとモーターの区別もわかっていない様子だった。今思っても教育という面ではひどい時代だった。戦時中を回顧して