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概要

韮友会だより_2017

14私の父の名は「岩?鋭市郎(いわさきたいいちろう)」と言います。「鋭一郎」と書かれ「えいいちろう」と読まれることが多いのですが、正しくは「鋭市郎(たいいちろう)」です。とは言え、父はそう書かれたり読まれたりすることを気にしていませんでした。父は明治38年5月26日、新潟県村上市の士族の家に生まれました。昭和2年3月に日本体操学校(現・日本体育大学)を卒業し、その4月に旧制韮崎中学校の堀内文吉初代校長の誘いに応じて韮崎に来ました。22才でした。身長は175cm、体重も20貫(75kg)ありましたから、当時としては大男で、運動は何でもこなしましたが、特に剣道、水泳が得意でした。走っても速く、私の兄の話に依ると運動会では教員の中でも別格だったそうです。声も大きく、これは剣道をやっていたせいではないかと思います。サッカーは専門ではなかったのですが、韮崎中学校がサッカーを校技と決めたので、新任の体育教師として、校長からサッカー部の指導を命じられました。若い頃の父は随分荒っぽかったようで、ついたあだ名が「嵐」です。八ヶ岳おろしから来ていると聞いたこともありますが、本当のところは私にも分かりません。このあだ名が定着してくると、「嵐先生」と呼ばれたり、さらには「嵐」と呼びかける生徒もいたそうですが、父は言われるが儘で気にしませんでした。私は6人兄弟の末っ子でしたから、父は可愛がってくれました。小学生の頃は、他校とサッカーの交流試合があると、父は度々私も連れて行ってくれました。浦和高校、習志野高校、武南高校などに行きました。何れもサッカー名門校です。韮高が関東大会で活躍していた頃は東京にもついて行き、試合の後、後楽園に連れて行ってもらったのは楽しい思い出です。韮高での練習にもついて行き、練習の後のハッカ水の余りを飲ませてもらったこともありました。中学生の時は私もサッカーをしていて、2年生の時に父がスパイク付きのバックスキンのサッカーシューズを買ってくれましたが、当時としては高価な物だったと思います。韮高に入学すると、サッカー部に入らないのかと周囲から言われ、それなりのプレッシャーがありましたが、父は入れとは言わなかったし、母も入らなくて良いと言ってくれたので、サッカーはしませんでした。私達6人の子供の教育は主に母が担っていました。母は土佐の士族の出で、二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)を卒業後、山梨の師範学校の教師となりました。父とは見合い結婚でしたが、母の活動的なところが気に入られたようです。岩?修(韮高16回卒)サッカー、韮崎高校、家族を全力で愛した父・嵐