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概要

韮友会だより_2017

12設計で築庭し、日本を代表する日本庭園として有名な現在都立公園となっている本郷の六義園は、柳沢吉保の下屋敷(上屋敷は現在の大手町の広大な屋敷)で、往時の権勢の大きさを物語っている。新政府となった明治期のこの時代になると、郡山藩主柳沢家は伯爵に、黒川藩主柳沢家と三日市藩主柳沢家、六浦藩主米倉家は子爵の位を授けられ、その子孫は現在に繋がっている。また同じ武川衆の白須・馬場・曲淵・山高・青木・折井・山寺の各将氏家は、江戸に於いて幕府旗本となる。武田家旧家臣団の中では、大名家はおろか旗本に列せれたのは、この武川衆以外では、三枝・小笠原・跡部・土屋・逸見・秋山氏の諸氏達だけである。これに比して、武田家滅亡と共に殉じた24将の多くの者達の他に、平成28年放送のNHK大河ドラマ「真田丸」において、武田家滅亡時の戦時事情として、武田家の縁者親族でもある穴山梅雪と小山田信茂の関わりの姿が描かれているが、その後、両氏とも粛清され家名断絶となった。武川衆は、主君を見限り家康の家臣となった事に、忠誠が無い一族と云う人もいるが、これは武川衆に限らず、歴史上数多くの事例が物語るように、穴山・小山田氏の不忠、裏切りとは違う、戦国の時代に生きる先見の目を持った、武士の生きる術と見るべきであろう。ちなみに、武士道を初めに記したとされている『甲陽軍鑑』では、武士の生存術として「自己を高く評価してくれる主君に付け」とも記されている。母校の地域一帯が「武田の里」と云われているのは、甲斐源氏の始祖・新羅三郎義光の曾孫に当たる信義が、甲斐武田郷(現・韮崎市神山町武田)に甲斐源氏4代目として甲斐源氏嫡流「甲斐武田家」を創始した地で、その20代目の勝頼(武田家17代目)の最後の居城が新府城であり、奇しくも、武田家の「韮崎に始まり韮崎に終わる」地であるからで、故郷を語る時、武田家は滅亡し今は過疎化が進む地とは云え、同輩達も故郷の歴史的背景や趨勢を知り、その気概を誇りとし、少しでも地域振興に寄与すべきではないだろうか。(出典・引用?『甲斐国誌』『甲陽軍鑑』『武川村誌』『長坂町誌』『須玉町誌』『武家家伝』『苗字の由来事典』他)写真撮影・篠原篤氏訂正前号・故郷歳時記その1「武川筋」編の誤記訂正*1.清哲町折居の地名を折井と誤記してしまいました。正しくは折居です。当地を知行した折井氏は、当初は地名の折居を称したが、その後折井に改姓したと云われています。*2.旭町・大草町地区の上條地区と、大草町・龍岡町の下条地区を上條氏、下条氏の知行地でルーツ地でもあると記しましたが、早速地元出身者よりご指摘があり、この地は甘利氏の所領地であることから、一部の書物にはそのように記載があるものの、間違いであるようです。本文は検証調査途中につき、未掲載部分や加筆補足訂正すべき個所が多々あるかと思います。ご指摘頂ければ幸いです。