ブックタイトル韮友会だより_2017
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韮友会だより_2017
11特別寄稿ら、戦える城として天然の要害の条件と諸道が交差する交通要衝でもあるこの地に、城を作り新府中移転を試みたが、織田、徳川勢の甲斐侵攻で新府城を放棄し、郡内に向かう途中で武田家は滅亡した。この地を、新府中の意味から新府(城)と命名する。◇藤井町駒井甲斐源氏6代・信政の子で駒井信盛の始祖地。駒井姓のルーツ地の一つ。信玄時代に著された『高白斎記(甲陽日記)』は、その子孫の武田家家老衆の駒井高白斎が作者であると云われている。◇穂坂町(当地は穂坂牧と云って、古代の官営の甲斐3御牧の一つで、聖徳太子も乗ったと云われている黒駒の産地。甲斐源氏小笠原氏一族・穂坂(保坂とも云う)氏の里。穂坂(保坂)姓のルーツ地)今井甲斐源氏13代・信満の子で今井信景の始祖地。今井姓のルーツ地の一つ余談・後記旧北巨摩地区は、立地特性が八ヶ岳の溶岩流の台地を堺に、釜無川添いの武川筋と塩川添いの逸見筋に分かれているが、この地形的な理由の他に、甲斐源氏の統治の歴史的背景の違いがその地名にも見てとれる(甲斐源氏分流系統図は本誌前号に記載)。それ故、武田家滅亡後の甲斐の支配は、一時徳川家4代の藩主統治後、武田一門の柳沢吉保が采地を解かれ甲府藩主大名として帰郷し、親子2代に渉っての統治後は、他の藩と違い、統治する藩主のいない幕府直轄領となる。徳川の時代になって築城された甲府城は、当初は武川衆と津金衆の諸士12名の2人輪番城番制となって守られて行った。徳川家康に召抱えられた武川衆12将の将氏達は、その殆どが采地(国替え)されるものの、「百折不撓」の心意気か、その後は武田家旧家臣団の中では一番の出世を見せた一族衆である。中でも、柳沢氏嫡流(吉保・吉里)は甲府藩主を経て、郡山藩15万1千2百石の藩主大名に、分家した吉里の弟2人は越後黒川藩1万石の藩主大名と、越後三日市藩1万石の藩主大名に、米倉氏は六浦藩1万2千石の藩主大名となる。ちなみに、自らの春の新府桃源郷(新府城跡より)